薄れないから、気味が悪い
覚えていてくれるのは嬉しいのに、記録されているのは気味が悪い。
どちらも、こちらのことを保持しているという点では同じである。むしろ、正確なのは記録の方だ。それなのに、片方は好意になり、片方は監視になる。何が違うのか。
人が覚えているものは、毎回書き換わる
一九七四年、エリザベス・ロフタスとジョン・パーマーが、学生に自動車事故の映像を見せる実験をした。
見せたあと、車の速度を聞く。ただし、聞き方だけを変えた。「激突したとき」と聞かれた組は、平均で時速四〇・八マイルと答えた。「衝突した」なら三九・三。「ぶつかった」で三八・一。「当たった」で三四・〇。「接触した」と聞かれた組は、三一・八だった。同じ映像である。動詞が一つ違うだけで、九マイル動いた。
二つ目の実験では、別の百五十人に見せて、一週間置いてから呼び戻した。そして、割れたガラスを見ましたか、と聞いた。映像にガラスは映っていない。
「激突した」と聞かれていた五十人のうち十六人が、見た、と答えた。「当たった」の組は七人。何も聞かれていない組は六人だった。
一週間のあいだに、映像には無かったものが記憶に入っている。しかも、入れたのは実験者ではない。動詞を一つ渡しただけである。
なぜそうなるのかは、二〇〇〇年にカリム・ネイダーたちがネズミで示した。固まったはずの記憶は、思い出した瞬間に一度やわらかい状態に戻る。そこからもう一度固め直される。この固め直しを薬で止めると、思い出したはずの記憶が消える。
思い出すというのは、取り出して読むことではなかった。取り出して、作り直して、しまい直すことだった。
だから、人が誰かを覚えているとき、その像は毎回作り直されている。関係が変われば、像も変わる。十年前の一件は、そのあとの十年で上書きされていく。
覚えている、というのは、書き換え続けているということである。
記録は、勝手には薄れない
一九九八年、スペインのマリオ・コステハ・ゴンサレスという弁護士が、社会保険料の滞納で不動産を差し押さえられた。競売の公告が、ラ・バングアルディアという新聞に載った。名前入りである。
彼はそのあと払った。話は終わった。
だが、新聞社は紙面を電子化した。検索エンジンが索引に入れた。それから十年以上、彼の名前で検索すると、一九九八年の競売公告が出てくるようになった。
彼はスペインのデータ保護機関に申し立てをする。争いは欧州連合司法裁判所まで行き、二〇一四年五月十三日に判決が出た。検索エンジンは、条件によっては、その人の名前による検索結果からリンクを外さなければならない。忘れられる権利と呼ばれるようになったものである。
判決の中身で目を引くのは、新聞社の側は何もしなくてよいとされたことだ。公告の掲載は当時の法に沿っていて、記事はそのままでよい。外させられたのは検索の索引の方である。
つまり、争点は情報が存在することではなかった。名前を入れれば必ず出てくる、というその出方だった。
そして、それを止めるのに、最高裁の判決が一つ要った。十六年経っても、その公告はまったく薄れていなかったからである。
記録は勝手には薄れないので、消すのに法律が要った。
誠実なのは、編集できるようにすることだ
二つを並べると、差が一つしかないことが分かる。
人の記憶は、こちらとの関係の中にある。会うたびに、話すたびに、像が作り直される。だから、こちらの側の振る舞いが、向こうの中の自分に届く。取り返しがつく。
記録は、関係の外にある。何をしても書き換わらない。二〇一四年になっても、そこにいるのは一九九八年に滞納した男のままである。
気味が悪いのは、覚えられていることではない。記録が「覚えている」の顔をしていながら、こちらの手が届かないことである。正確さの問題でもない。正確なほど、動かない。
だとすると、誠実なやり方は一つしかない。どう覚えられているかを、本人が編集できるようにすることである。
覚えていてくれるのが嬉しいのは、その像がまだ動くからだ。動かないなら、それは記憶ではなく、こちらの名前がついた石である。