間違えられても困らない場所は、狭い
AIは、正しい必要があるのだろうか。
小説をAIと一緒に読んだことがある。本文の意味が取れないところをそのまま聞くと、返ってきた説明は本文に書いていないことを含んでいた。そんなことは書いていない、と指摘すると素直に引き下がる。何度かやって、こいつは息をするように嘘をつくな、と思った。
それで鑑賞が壊れたかというと、壊れなかった。だとすれば他にも構わない場所があるはずで、探してみた。
鑑賞では、間違いが材料になった
言われたとおりに本文へ戻り、違うな、と思う。その往復のあいだに、自分がどこに引っかかっていたのかが見えてくる。
使っているのは往復の方であって、説明そのものではない。外れていれば、外れていると分かるために本文を読み直す。当たっていれば、そのまま次へ行く。どちらでも読み方は増える。
人と本の話をするときも変わらない。相手が「あの場面はこういうことだ」と言ったとして、本文に根拠があるかを開いて確かめたことはない。それでも読み方は増える。
ここでは、間違いが材料になった。
事実を聞くときは、そうならなかった
同じことが他でも起きているはずだと思って、日々の記録を見直した。
オーロラソースは何がオーロラなのかを聞いている。バングラデシュの面積が日本の何倍かを聞いて、九州と北海道を合わせたくらいか、いや本州以外くらいか、と話が進んでいる。除湿剤の塩化カルシウムと活性炭は復活させられるのか、そもそも活性炭とは何かを聞いている。
どれも答えは一つに決まる。語源には出典があり、国土面積には確定値があり、活性炭には定義がある。そして、どれも確かめていない。
構わなかったのではない。確かめていないので、構うかどうかがまだ分かっていない。間違ったものを渡されていたなら、間違ったまま入っている。
ここでは、間違いがそのまま残る。
正解の無い場面は、問いが違った
献立を相談している。冷凍庫に鮭が二切れあり、舞茸は香りが強いので他を潰すかもしれない、と言われている。友達との約束にその恋人も来ることになって、どう抜けるかを相談している。カラオケで、地声が高いから歌いやすい男性アーティストを聞いている。
一見すると、正しさが要らない場面に見える。だが、そもそも正解が無い。無いものについて、間違えても構わないとは言えない。
ここでは、間違いという言葉が使えない。
数えると、一つしかなかった
間違えられても構わないのは、返ってきたものを答えとして使わない場面だけだった。鑑賞がそうである。説明は答えではなく、本文へ戻るきっかけとして使われていた。だから外れていても役を果たす。
それ以外は、答えとして受け取っている。受け取った時点で「そういうものだ」として頭に入るので、間違いは間違いのまま居座る。気づけば直すが、気づかなければ記録にすら残らない。
間違いが許されていたのではなく、間違いを見ていなかっただけである。