全ては利害だ、とした方がやさしい
誰にでも当てはまる正しさを一つ立てると、その下に置かれる人が必ず出る。強さを善とすれば弱い者が、賢さを善とすれば賢くない者が下になる。落ちる場所が変わるだけで、落ちること自体は消せない。
では、何も立てないとどうなるか。
利害を置く
正しさの代わりに置くのは、利害である。
利害とは、その人が自分にとって都合が良いかどうか、ということだ。役に立つ。話していて楽しい。一緒にいると仕事が進む。そういうものである。
自分の愛にも、あなたの愛にも、等しく客観的な価値などない。あるのは当人にとっての都合の良さだけだ。
冷たく聞こえると思う。だが、ここが肝心なところで、都合の良さは人によって違う。ある人には合わない相手が、別の人には合う。
正しさが一本しかない世界では、下に置かれた人は、全員から下に置かれる。逃げ場がない。利害には共通の目盛りがないので、全員から一斉に下に置かれる、ということが起きない。
全ては利害だ、とした方が、よほどやさしい。誰の価値も測らないので、誰も値踏みで落ちない。
その実装が、経済である
利害を置く、というのは考え方の話に聞こえるが、実装はもうある。経済である。
市場は、買い手が何者かを問わない。同じ額を出せば、誰でも同じものが買える。血筋も、才能も、人柄も、値段には入っていない。
金は共通の目盛りに見える。だが測っているのは人ではなく、取引の方だ。ある取引では歓迎される人が、別の取引では相手にされない。それは人の序列にはならない。
『るろうに剣心』の北海道編に、武田観柳という悪役が、生まれつきの不平等と金の平等について話す場面がある。
金で買えないものは差別を生みます
才能、血筋、家柄、見た目。金では手に入らないものの周りに、差別は集まる。買えるものについては、持っている人と持っていない人の差が、金で埋まってしまうからだ。
これを言うのは阿片を売っていた男で、作中では明確に悪役として描かれている。それでも、ここは正しいと思う。
同じことは、三百年近く前にも言われている。
ヴォルテールが一七三三年に出した『哲学書簡』に、ロンドンの取引所を見に行く場面がある。
そこではユダヤ人も、イスラム教徒も、キリスト教徒も、同じ宗教であるかのように取引し、破産した者だけを不信心者と呼ぶ
宗教が人を分けていた時代である。その分断が、取引所の中だけ効かなくなっていた。効いていたのは、支払えるかどうかだけだった。
アダム・スミスは、一七七六年の『国富論』でもう一歩進める。
われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである
善意をあてにしない。相手の利害をあてにする。そうすると、飯が届く。
三百年のあいだ、同じことが繰り返し言われている。啓蒙の側からも、悪役の口からも。
私たちを救ったのは、どちらか
ここまでは理屈の話である。実際にどうだったかを見る。
道徳は昔からあった。弱い者を助けよ、という教えは二千年以上前からある。
それでも、十九世紀の初めまで、平均寿命が四十年に届いた国は、記録の残るかぎりどこにもない。世界平均の推計は二十八・五年である。
ただし、この数字は誤解されやすい。当時の人が四十歳で死んでいた、という意味ではない。乳幼児の死亡が多すぎて、平均が引きずり下ろされているだけである。二十歳まで生きた人の余命は、当時でも六十代に届いた。
つまり、当時の問題は寿命の上限ではなかった。そこに到達できるかどうかだった。
そして、そこは金でも身分でも動かなかった。イギリスの貴族の家系を追った研究でも、生まれた時点の平均余命は庶民と大差がない。屋敷に住んでいても、子供は同じように死んだ。
道徳でも、身分でも、金でも動かなかったものが、この二百年で動いた。いま世界の平均寿命は七十一歳である。一八二〇年に世界人口の八割が置かれていた極度の貧困は、一割まで下がった。
動かしたのは、清潔な水と、下水と、薬と、食べ物である。どれも作る話であって、心がけの話ではない。しかも、誰かを救おうとして作られたものでもない。売れるから作られ、安くなったから行き渡った。
いまも最大寿命はほとんど伸びていない。伸びたのは到達率の方である。届かなかった人が、届くようになった。
床を上げたのは、利害の方である。
正しさを立てる側は、下に置かれる人を作った。利害の側は、床を上げた。どちらがやさしかったかは、数字で出ている。