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2026.08.01

全ては利害だ、とした方がやさしい

これまで

誰にでも当てはまる正しさを一つ立てると、その下に置かれる人が必ず出る。強さを善とすれば弱い者が、賢さを善とすれば賢くない者が下になる。落ちる場所が変わるだけで、落ちること自体は消せない。

では、何も立てないとどうなるか。

利害を置く

正しさの代わりに置くのは、利害である。

利害とは、その人が自分にとって都合が良いかどうか、ということだ。役に立つ。話していて楽しい。一緒にいると仕事が進む。そういうものである。

自分の愛にも、あなたの愛にも、等しく客観的な価値などない。あるのは当人にとっての都合の良さだけだ。

冷たく聞こえると思う。だが、ここが肝心なところで、都合の良さは人によって違う。ある人には合わない相手が、別の人には合う。

正しさが一本しかない世界では、下に置かれた人は、全員から下に置かれる。逃げ場がない。利害には共通の目盛りがないので、全員から一斉に下に置かれる、ということが起きない。

全ては利害だ、とした方が、よほどやさしい。誰の価値も測らないので、誰も値踏みで落ちない。

その実装が、経済である

利害を置く、というのは考え方の話に聞こえるが、実装はもうある。経済である。

市場は、買い手が何者かを問わない。同じ額を出せば、誰でも同じものが買える。血筋も、才能も、人柄も、値段には入っていない。

金は共通の目盛りに見える。だが測っているのは人ではなく、取引の方だ。ある取引では歓迎される人が、別の取引では相手にされない。それは人の序列にはならない。

『るろうに剣心』の北海道編に、武田観柳という悪役が、生まれつきの不平等と金の平等について話す場面がある。

金で買えないものは差別を生みます

才能、血筋、家柄、見た目。金では手に入らないものの周りに、差別は集まる。買えるものについては、持っている人と持っていない人の差が、金で埋まってしまうからだ。

これを言うのは阿片を売っていた男で、作中では明確に悪役として描かれている。それでも、ここは正しいと思う。

同じことは、三百年近く前にも言われている。

ヴォルテールが一七三三年に出した『哲学書簡』に、ロンドンの取引所を見に行く場面がある。

そこではユダヤ人も、イスラム教徒も、キリスト教徒も、同じ宗教であるかのように取引し、破産した者だけを不信心者と呼ぶ

宗教が人を分けていた時代である。その分断が、取引所の中だけ効かなくなっていた。効いていたのは、支払えるかどうかだけだった。

アダム・スミスは、一七七六年の『国富論』でもう一歩進める。

われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである

善意をあてにしない。相手の利害をあてにする。そうすると、飯が届く。

三百年のあいだ、同じことが繰り返し言われている。啓蒙の側からも、悪役の口からも。

私たちを救ったのは、どちらか

ここまでは理屈の話である。実際にどうだったかを見る。

道徳は昔からあった。弱い者を助けよ、という教えは二千年以上前からある。

それでも、十九世紀の初めまで、平均寿命が四十年に届いた国は、記録の残るかぎりどこにもない。世界平均の推計は二十八・五年である。

ただし、この数字は誤解されやすい。当時の人が四十歳で死んでいた、という意味ではない。乳幼児の死亡が多すぎて、平均が引きずり下ろされているだけである。二十歳まで生きた人の余命は、当時でも六十代に届いた。

つまり、当時の問題は寿命の上限ではなかった。そこに到達できるかどうかだった。

そして、そこは金でも身分でも動かなかった。イギリスの貴族の家系を追った研究でも、生まれた時点の平均余命は庶民と大差がない。屋敷に住んでいても、子供は同じように死んだ。

道徳でも、身分でも、金でも動かなかったものが、この二百年で動いた。いま世界の平均寿命は七十一歳である。一八二〇年に世界人口の八割が置かれていた極度の貧困は、一割まで下がった。

動かしたのは、清潔な水と、下水と、薬と、食べ物である。どれも作る話であって、心がけの話ではない。しかも、誰かを救おうとして作られたものでもない。売れるから作られ、安くなったから行き渡った。

いまも最大寿命はほとんど伸びていない。伸びたのは到達率の方である。届かなかった人が、届くようになった。

床を上げたのは、利害の方である。

正しさを立てる側は、下に置かれる人を作った。利害の側は、床を上げた。どちらがやさしかったかは、数字で出ている。

近いところ — 意味でつながる考えと作品
考えていること
断る側が、決める側になる
五年/研究/時点 が重なる
作ったもの
自動でメールに返事するAI
手を動かした実物