設計図の方が本物
「本物」とは、何で決まるのか。
てんかんがあって、薬を飲んでいる。飲んだ場合と飲まない場合で、頭の働き方が変わる。では、どちらが本物か。どちらも本物な気がする。
本物とは何かを、考えてみる。船と、思考実験と、薬を並べる。
一 板を全部替えた船
テセウスの船という話がある。
もとは思考実験ではなく、実在の船の話だった。プルタルコスが伝えているところによると、古代アテナイの人々は、英雄テセウスが乗って帰ったとされる船を港に保存していた。木造だから朽ちる。朽ちた板は外して、新しい板を入れる。それを何百年も続けた。
保存しているつもりで、材料は少しずつ入れ替わっていく。やがて、最初の板が一枚も残らない日が来る。これは、まだテセウスの船なのか。
千数百年あとに、ホッブズが意地の悪い追加をした。外した古い板を全部とっておいて、それでもう一隻組み直したらどうなるのか。目の前に船が二隻ある。材料でできているのは、こちらである。
哲学者はここで揉め続けたが、現実の方はとっくに決めている。
伊勢神宮は二十年ごとに建て替えられる。千三百年続いていて、当然ながら創建時の木は一本も残っていない。それでも同じ神宮である。会社もそうだ。社員が一人残らず入れ替わり、事業も社屋も変わっても、法人としては同じ会社として契約を負い続ける。あなたの体も同じで、細胞が入れ替わっても、戸籍も借金も引き継がれる。
材料は一片も残らなくてよい。建て方さえ残っていれば、同じものとして扱われる。
二 沼から出てきた男
スワンプマンという話がある。哲学者のドナルド・デイヴィッドソンが一九八七年に出した。
背景にあるのは、心の中身は何で決まるのか、という問いである。頭の中の状態だけで決まるのか。それとも、外の世界との関わりまで含めないと決まらないのか。デイヴィッドソンは後者を主張していて、そのために極端な例を作った。
ある男が沼のそばを歩いていて、落雷に撃たれて死ぬ。まったく同じ瞬間、すぐ隣の沼で、偶然の化学反応が起きる。ありえない偶然だが、分子の配置が、死んだ男とそっくり同じ体ができあがる。
この体は起き上がり、家に帰る。妻に挨拶をし、いつもの席に座り、昨日の続きの話をする。脳の状態まで同じなので、記憶も、口癖も、家族への感情も、内側からは何ひとつ違わない。外から見ても誰も気づかない。
デイヴィッドソンは、これは別人だと言う。理由が独特で、この男の言葉は何も意味していない、という。
彼が「妻だ」と言うとき、その言葉は誰も指していない。彼はその人に一度も会っていないからである。言葉が何かを意味するのは、その言葉と対象のあいだに、過去のやりとりの積み重ねがあるからで、生まれて数秒の彼には、その積み重ねが無い。記憶も同じだ。頭の中に思い出があっても、それは思い出ではない。思い出とは実際に起きたことの痕跡であって、彼の中にあるのは痕跡の形をした模様でしかない。
筋は通っている。ただ、その基準はどこにも実装されていない。
毎朝会う相手が昨日と同じ人物であることを、我々はどうやって確かめているか。顔と、話の続き方と、向こうが覚えていることで判断している。分子がどこから来たかを確かめた人は一人もいない。事故で記憶を失った人を別人として扱うこともない。逆に双子を別人だと判断するのは、来歴が違うからではなく、中身が違うからである。
来歴はゼロでよい。同じ情報が入っていれば、本物として扱われる。
三 飲んでいる自分と、飲んでいない自分
自分の場合を並べる。
バルプロ酸という薬を飲んでいる。抗てんかん薬で、気分を安定させる薬としても使われる。
脳のなかで興奮を抑える側の物質を増やし、神経の信号が立ち上がる通り道を鈍くする。それだけでなく、遺伝子の読み出し方そのものにも触っていることが分かっている。神経のつなぎ方の側に手が入る、ということだ。
そして、ここが厄介なところなのだが、自分にはそれが見えない。
内側から見ると、いつも通りの自分がいる。同じものを面白がり、同じことを覚えている。変わったという実感がどこにも無い。だが、気分に効く薬だと科学の側は言っている。効いているのなら、性格のどこかは動いているはずである。動いた先の自分が、動いたと思わないだけだ。
板が一枚替わったことに、船は気づけない。
材料は動いている。連なりの方も、毎晩の眠りで切れている。それでも翌朝の自分を別人だとは思わないし、周りもそう扱わない。設計図が続いているからだ。
沼の男と違うのは、こちらには決着をつける必要があることだ。あちらは論文の中にいる。こちらは薬を飲むか飲まないかを、来週も決めなければならない。
三つとも、同じことを言っている
船は、材料が全部入れ替わっても本物だった。沼の男は、来歴がまったく無くても本物として扱われる。自分は、材料も連なりも動いていて、それでも自分である。
残っているのは一つだけだ。設計図である。
医療が毎日やっているのもこれだ。手術も投薬もリハビリも、体か脳に手を入れて、前と少し違う人にする。それを偽物と呼ぶなら、医療は全否定になる。誰もそうは扱っていない。設計図が続いていれば本物、で運用している。
だから自分も、設計図の方を本体として扱っている。