理解は、百パーセント誤解である
伝わった、というのは何のことか。
こちらの頭にあるものと同じものが、相手の頭にも立った、ということである。だが、それを確かめる方法があるだろうか。相手が正しく頷いた、というのは、頷く場面が一致したという事実でしかない。
一致したかどうかは、確かめられない
一九六〇年、ウィラード・クワインが『ことばと対象』という本で、こういう場面を出した。
言語学者が、まったく知らない言語の話者と一緒に歩いている。目の前をウサギが走り抜ける。話者が「ガヴァガイ」と言う。
学者は手帳に、ガヴァガイ=ウサギ、と書きたくなる。だが、それでは決まらない。
その語が指しているのは、ウサギという一匹の動物かもしれない。ウサギの、いまこの瞬間の時間的な一断面かもしれない。まだ切り離されていないウサギの部品の集まり、かもしれない。ウサギ性がそこに現れている、という意味かもしれない。
どれであっても、話者が「ガヴァガイ」と言う場面はまったく同じになる。ウサギを指差すことは、同時に、ウサギの一断面を指差すことであり、ウサギの一部を指差すことでもあるからだ。指を差しても区別できない。
クワインが示したのは、相手の振る舞いを残らず説明できる訳が複数あって、そのどれが正しいかを決める事実が、どこにも無いということである。もっと長く付き合っても、もっと質問しても、同じことが起きる。
一致したかどうかを確かめる方法が、そもそも無い。
一致を確かめないまま、通信は作られた
その十二年前、まったく別の場所で、通信を数学にした人がいる。
一九四八年、クロード・シャノンが「通信の数学的理論」という論文を出した。いまの通信のほとんどが、この論文から出ている。
冒頭に近いところに、こう書いてある。
通信のこうした意味的な側面は、工学的な問題とは無関係である
続けて、重要なのは、実際のメッセージが、あり得るメッセージの集合から選ばれた一つであるということだ、と書く。
何が意味されたかは扱わない。どれが選ばれたかだけを扱う。そう決めた。
そこから、圧縮も、誤り訂正も、通信路の容量の計算も出てきた。電話網も、インターネットも、この上に建っている。いま、この文字が届いているのもそうである。
八十年近く、世界中の通信が動いてきた。そのあいだ、意味が一致したかどうかは、一度も検査されていない。検査する仕組みが入っていない。
意味の一致を確かめないまま、通信は作られ、そして動いた。
測るものを、一致から再現に替える
二つは、向きが逆に見えて、同じ一点を指している。
哲学の側は、一致を確かめる手立てが無いと言った。工学の側は、一致を確かめずに全部作れると示した。どちらの側からも、意味がそのまま移るという場面が出てこない。
実際に起きているのはこうだ。こちらが何かを送る。相手はそれを受け取って、自分の中にある材料で組み直す。組み上がったものは、相手の材料でできている。だから、こちらのものとは違う。
それを誤解と呼ぶなら、理解は百パーセント誤解である。悪い意味ではない。誤解しかない、というだけである。
ここで、伝わらなくてもいい、という話にはならない。測るものを取り替えるという話になる。
シャノンがやったのが、まさにそれだった。意味は扱わないと宣言したが、そのかわりに何も測らなかったわけではない。同じものを送ったとき、向こう側に同じものが現れるか。これは徹底して測っている。雑音でどれだけ崩れるか、どれだけ余分を足せば元に戻せるか、この通信路にはどれだけ通せるか。誤り訂正という技術は、意味を一度も見ないまま、届いたかどうかだけを保証する仕組みである。
一致は測れない。再現は測れる。
だから、伝わったか、を聞くのをやめる。かわりに、同じことがもう一度起きるか、を見る。同じものを置いたとき、相手が変わっても、時間が経っても、同じ形の像が立つかどうか。立つなら、それは誤解であっても再現している。立たないなら、こちらの側の組み方が毎回違っている。
一致は設計できない。再現は設計できる。
伝え方を磨くというのは、そちらの作業のことだと思う。相手の頭の中を良くする作業ではなく、同じ入力から同じ出力が出るようにする作業である。